著名人の思い出エピソード
思い出の番組:連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』
「チョコザイな小僧め、名を名乗れ!」
「赤胴鈴之助だあ!」で、始まる連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』が、私にとって思い出に残るもっとも古い番組でしょう。私が小学生の頃(1957年〜59年放送)、毎日夕方、わくわくしながらラジオの前にじんどっていたものです。友達同士で“真空斬り”(鈴之助の特技)のマネをしました。
「ラジオで連続ドラマを聴く。それを楽しみにする。」そんな時代でした。
やがて、ラジオドラマの出演者はマイクの前で台本を持ってせりふを言っているだけなんだ、ということを知ってショックを受けました。てっきり舞台のようにみんなが本当に芝居をしているものだと思い込んでいました。そんな時代でした、でも楽しかったなあ、ホントに。
このラジオドラマでデビューしたのが、千葉周作の娘・さゆり役の吉永小百合でした。子供ながらに「うまいなあ」と思いました。やっぱりなにか存在感があったのでしょうね。
語り手はのちに国会議員になる山東昭子、その語りに引き込まれたものでした。
思えば、私が放送の世界へ就職した原点が、ここにあったのかも、です。
思い出の番組:「志村けんのだいじょうぶだぁ」
毎週月曜日の放送時間になると、祖父母、両親、弟と一緒に揃って見た、
私にとって「家族団らん」の思い出の番組です。
小学生だったので、普段はもっと早く寝るのですが、この番組の放送日だけは長起きを許してもらえる、大人の気分を味わえる日でした。
もうひとつ、家族がビールのおつまみに食べるレーズンバターや、ナッツの味を知ったのも、この番組の時間でした。ちょっと大人気分が味わえた思い出の番組です。
思い出の番組:「東京ラブストーリー」
小学生の頃に見ていた大好きな番組です。
家族で夜、ジュースやお菓子を用意して、毎週楽しみにしいました♪子供ながらに「恋愛って切ないなぁ・・・・」と感じたりもしました。
今でも脳裏に焼き付いているシーンは、別れ際にリカが、カンチに「せーの!で一緒に後ろを向こう。振り向いちゃダメね!せ〜〜〜のっ!!!」と言うのですが、リカは後ろを向かずそのままで、
カンチは後ろ向きに歩いてしまうシーン。
それを見て「私も大人になったら同じことやってみたいなぁ〜」と、乙女心をドキドキさせていました。
不倫の話も入っていたことは、当時の私は理解していませんでしたが、チョット複雑な恋愛模様を楽しんで見ていました。
家族でじっくり見入ってしまった初めての恋愛ドラマが「東京ラブストーリー」です。
思い出の番組:『ナウナウナウ大行進』
昭和50年代、大分県民にとってのスーパースターは、ビンビンとバンバンだった。
ビンビン(西村敏雄)とバンバン(植木伴子)が、土曜日の午後2時半から5時までの生放送、OBSラジオの『ナウナウナウ大行進』という番組で繰り広げるトークの面白さは、
間違いなく大分県民を大爆笑させていた。特にビンビンのおふざけは、留まるところを知らず、天気予報さえも笑いのネタにして、リスナーをハラハラさせていた。
また、二人が歌うパロディーソングの『トキハ』は、当時、大分県民で知らない者はいなかった。
こんなにふざけていいのだろうか?ラジオって限りなく自由だなあと心底思った私が、その『ナウナウナウ大行進』の時間帯に『夕方なしか!』という番組を始めたのが今から17年前のことである。
ローカル番組の真髄である、方言による県民性の共有の伝達を継承しているつもりではあるが、
未だにビンビンの快活な笑い声と「な〜んも心配要らん」というフレーズを思い出しては、自分自身を奮い立たせている。
思い出の番組:『ミュージックポスト』
私の思い出の番組は、36年に亘って放送したスタジオ公開番組「ミュージックポスト」(月〜金、午前9時〜10時30分)です。
ハガキや手紙をくださった方と電話をつなぎ、“ 奥さん、今何やってらっしゃいました?”と、まあ、世間話でもするつもりで進めていく番組でした。
新潟弁丸出しで、リスナーの皆さんに元気と勇気を送ってきましたが、逆にリスナーから教えてもらうことも多々ありました。
思い出に残るシーンは数え切れないほどありますが、ここで一つだけ挙げるとするなら、スタジオによく来られていた90歳を超えたおばあちゃん、広川サツさんをパーソナリティとして迎えたことです。広川さん人気はうなぎのぼり、多くの放送局や雑誌社などが取材に来ました。
そして、「サツと修吾のハッピートーク」という番組もスタート。お年寄りには元気を送り、若者には、おばあちゃんの知恵を伝える。高齢社会を先取りしたような番組でした。
私は番組をやっていた時はいつも、朝は希望をもって起き、昼は愉快に仕事をし、夜はその日に感謝して眠るをモットーにしていました。40余年の放送人生を終えた今は、ゆっくりと家の庭の木々や草花に語りかけています。
思い出の番組:『FM バラエティ』
「ジョルジオ・モロダー/DooBeeDooBeeDoo」をバックに、パーソナリティ青木小夜子さんの「こんばんは、こんばんは、もひとつおまけに、こんばんは」という台詞で始まる「FMバラエティ」。
その中でも特に印象的だった「小夜子の部屋」はエコーの掛かったボイスで始まって艶やかにポエムを読むコーナー(だったと思います、私の記憶の中では…)。
優しく丁寧で、それでいて飾らず軽快、そして時にはちょっぴりセクシーな彼女の語り口に、知らず知らず魅了されていたんでしょうね、色々と想像を膨らませながら聞いていたのを覚えています。そしてラジオが若者のカルチャーを牽引するのを目の当たりにした私が、今度はラジオでお喋りをする立場に。
もしかすると、あれから30年近く経った今ひと度ラジオに求められるのは独自の選曲と情報、そして想像をかき立てるトークなのかもしれませんね。
そういえば、当時はネット放送というシステムはあまり知られいなかったんでしょうか、聞いていたそれぞれが地元の番組だと思っていたので、例えば九州の友達に話した折には、何で名古屋のお前がその番組を知ってるんだ?なんて話になった事もありましたっけ…
思い出の番組:『パジャマプレス』
「期末テストの勉強をしながら聞いてます。3年1組のみんなに赤坂さんから応援メッセージを届けて下さい。リクエストはBen E.KingのSTAND BY MEでお願いします。」
1枚のハガキにしたためた何でもない文章とリクエスト曲。
中学3年生の僕にとっては精一杯の気持ちだけで書いたハガキだった。
そのハガキがまさか読まれるなんて。
深夜の放送。
中学生の僕にとってその時間は、未知の世界。
眠気と戦いながら夢中になっていた。
親に見つからないようにヘッドフォンでエアーチェック。
お前は一人じゃないんだ、全国の人と繋がってるんだよ!と教えてくれた番組でもあった。
JFN系列全国ネットのFM番組『パジャマプレス』
水曜日のパーソナリティは赤坂泰彦氏。
水曜日は特別だった。
時にはゲラゲラ笑い、赤坂さんが発する一言を聞き逃さないように聞き入った。
「群馬で聞いてくれているサトシ!頑張れよぉ!早く寝ろ!」
そして流れ始めたSTAND BY ME・・・。
その瞬間のドキドキ感と鳥肌が立つほどの感情の高ぶりは今でも忘れない。
その時に持った夢。
ラジオパーソナリティ。
目標は今でも「赤坂泰彦」だ!
赤坂さん!
僕との約束忘れてませんよね?
思い出の番組:『君のハートにナイトイン』
1989年から2000年まで、『君のハートにナイトイン』というラジオ番組でしゃべってました。月曜から金曜日までの帯番組で、放送回数も3000回を超えた番組でした。
当時はハガキリクエストが全盛の時代で、僕は、ただそれを読むだけでよかったんです。細かい字でギッシリ書いてあるハガキや、イラスト入りの色鮮やかなハガキや、なぐり書きみたいなハガキ・・・。
今思えば、ハガキ代も中学生のおこづかいからすれば高いし、投函して一週間後くらいに読まれてタイムリーでもないし、とにかく不便な気がします。ただ、個性がわかりやすかった。デカイ字は声を大きく、綺麗な字はうつくしく、細かい字は繊細な気持ちでハガキを読んでいた。11年のあいだに色んなコーナーが出来、色んな企画があったけれど、それも全てリスナーによって作られたものでした。
今でも、たまに街で当時のリスナーから声を掛けられたりするほど、ほぼ全員、当時のラジオネームで会話します。顔は覚えてないけど、不思議とラジオネームを聞くと、ハガキが脳裏にうかんでくるんですよ。筆跡で思い出す事がよくある。
ハガキに真っ正面からぶつかり、逃げる事無く正直に向かい合った日々は、今の僕を支えてくれています。
思い出の番組:『ベストヒットUSA』
「伝説の」音楽番組「ベストヒットUSA」。DJはもちろん小林克也さん。
深みのある美声にバイリンガルのトーク。話す魅力と力強さに幼い私は参ってしまい、ずっと克也さんの信者である。
当時はMTV全盛期、「Thriller」や「Beat it」に熱狂し、「Take on me」のロマンティックな映像に酔いしれ「Walk this way」で新たな音楽の誕生を目の当たりにした、
そんなファンは多いはず、でもこの番組がすばらしいのはあの「伝説のDJ」が真正面から
僕らに語りかけ続けてくれたからに他ならない。
かつて克也さんが若手コメディアンにこんなアドバイスを送った「笑いとは強いものを笑いのめし、弱い者の溜飲を下げるためにある」と。これはなんだ?これこそが、ロック以降の音楽を支えた「反逆の精神」じゃないか!
克也さんは海外アーティストのとがったメッセージを柔らかく受け止めわかりやすく伝えてくれた。大人の汚さを訴えるロックミュージシャンや、社会の不正義と戦うラッパーを身近に感じるのは、
克也さんがいてくれたからなんだ。
放送局を何度も変えながらも、現在も届く僕らを奮い立たせるメッセージ。熱い魂と深遠な声がいまも届くこの幸せをいつまでもかみしめていたい。
思い出の番組:『赤銅鈴之助』『まぼろし探偵』などの連続ラジオドラマ
なにしろ『三丁目の夕日』世代ですから、子供のころの娯楽は夕方のラジオドラマ。
それも人気漫画のドラマ化はみんなの大人気で、毎日、ラジオの前でワクワクしながら
聴き入ったものです。
大学時代は深夜放送全盛。自分もアナウンサーになって、そんな深夜番組を担当して
大いに盛り上がりました。
そして民放第一声の我が社は、ことし開局60周年記念企画とし
連続ラジオドラマ『還暦刑事(デカ)』を企画。
毎週金曜日、僕の担当番組『ごごイチ・ゴールド』の夕方のゾーンで放送したのも奇妙な因縁でした。
はじめ「え!いまどきラジオドラマ?」という感じでとまどっていたリスナーの
皆さんも、半年後には「音から絵
が見える」「「もっと続けて!」という反応に
変わっていきました。
最終回は主役の平泉 成さんはじめ、地元の役者さん、アナウンサー、パーソナリティー総出で1時間の公開生ドラマ
を敢行!の予定が台風12号の影響で暴風警報が発令され、やむなく公開は中止。しかしスタジオで生ドラマは決行しました。
先人の名番組同様、これも皆さんの思い出に残れば・・・と思ったものです。
思い出の番組:ラジオプロ野球中継 中日・ヤクルト戦
スポーツアナウンサーにとって一番幸せな時間は、優勝決定の瞬間を伝える時だろう。
「マウンド上、今日の郭源治は落ち着いている。ツーアウトランナーなし、バッターボックスには秦、ボールカウント2−1から郭、第四球を投げた。空振り三振!試合終了!
中日ドラゴンズ優勝!ドラゴンズ六年ぶり四回目の優勝達成!ナインがマウンドに集まった!長く苦しいペナントレースを乗り越えた歴戦の勇士たちが集まった!星野監督の胴上げが今始まりました。」
当時はめったに優勝する事のない中日、それが自分の実況担当の日に当たった。しかも、マジック対象チームの敗戦によって決まったのでもなければ、凡打によってその瞬間が訪れたのでもなく、
ホームグラウンドで最後の打者が空振り三振という、最高の『美しい瞬間』に出会えたのだ。さらに幸せだったのは、この日の試合、五回を終わって9対0と中日が大きくリード、どう間違っても優勝が決まるという確信のもと、
心の余裕も出来ていた。だからドラゴンズナインを称えるべく用意していた『歴戦の勇士たち』のフレーズも自然と出てきた。昭和63年10月8日、僕はドラゴンズファンとは違った至福の時間を味わっていた。
思い出の番組:『渡辺篤史の建もの探訪』
「♪時々遠くを見つめる 不安そうなあなたの横顔」
テレビから小田和正さんの優しい歌声が流れてくると、わくわくしたものです。
私がまだ4,5歳くらいの頃、毎週楽しみにしていた番組。
それが、『渡辺篤史の建もの探訪』です。
俳優の渡辺篤史さんがちょっと変わった住宅や工夫のある住宅を訪ねて紹介する
この番組を、毎週土曜日、幼稚園に行く前に食い入るように見ていたのを覚えています。
母は「何で子どものくせにこの番組が好きなの?渋い趣味だね」と
笑っていましたけれど・・・。
今になって、「なぜ子どもの私が、あの番組が好きだったのか」と理由を考えると、
あの、未知の場所をまるで自分が探検しているようなドキドキ感!
そして、我が家とは違う、知らない家族の生活をのぞいているワクワク感!
だったように思います。
坂道にまっすぐ家が立っている不思議も、はしごのついたロフトも、
真っ白ならせん階段も、当時の私にとっては、すべてが新しい世界でした。
そんなわけで、幼稚園から帰るときも遊ぶときも、くちずさむのは、
「♪言葉と心の間
それは君しか分らない」
当時まわりの大人たちは、それは可笑しかったでしょうね〜。


















